美輪明宏が脳梗塞で入院!三島由紀夫絶賛の歌手も若くない!ハーフなん?

 

日本の「シャンソン・シンガー」でお馴染み「美輪明宏」氏が軽度の「脳梗塞」で入院していた
ことが分かり話題になっております。

 

引用元【インスタがラム(doyoga8)】

 

現在(2019年9月)東京芸術劇場で行われている「美輪明宏の世界~愛の話とシャンソンと」の
公演の休日に突然「体調不良」を訴えたそうで、そのまま病院で受診したところ軽度の
「脳梗塞」を発症していることが分かり、急遽入院することになったそうです。

入院期間は約「二週間」を予定しており、外科手術は行わず「薬」での治療を行うとの事です。

尚、主催(パルコ・エンタテインメント事業部)発表によると今後同公演のスケジュールは全て
「未定」とされ、予約販売されたチケットは全て「払い戻し」の対象となるそうです。

楽しみにしていたファンにとっては残念な未公演になってしまいましたが美輪明宏氏の病状が
気になるところです。

美輪明宏氏は1935年5月生まれの84歳(2019年)で長崎県長崎市のご出身です。

ご実家は地元「長崎市」でカフェを経営されていたようで、ご家族は五人兄弟の「次男」として
生を受けたそうです。

しかし当時(1941年頃)は「戦争真っ最中」で多国籍文化(カフェ)を営んでいたご両親が
「敵文化の商売」を拒んだことで店は閉店し「金融業」に転業したそうです。

その後地元で育ちご自身10際の時に世界で初めて日本へ「原子爆弾が投下」されたそうですが
自宅が落下ポイントから4km離れていた事で「直撃」は避けられご無事だったそうです。

激しい戦争が続いていたそうですが約六日間、近所の「防空穴」に逃げ込みしばらく隠れて
いたところ「終戦の日」が訪れ、後に外に出たところ「地獄の絵図」を見たとの事です。

「原爆投下」後の長崎県は「荒れ地」に化し父親の事業も相次いで倒産、更に亡くなった事で
お金のやりくりが出来なくなり「貧乏生活」へと陥ったそうです。

その辺から家族構成が「メチャクチャ」となったそうで、ご自身の生活環境すら危ぶまれ誰に
育てられたのすら?分からない状況だったそうです。

その後本格的に「終戦を向かえ」周りの環境が改善する中、鑑賞していた映画で「加賀美
一郎」青年の美しい「ソプラノ」を聞いて憧れ、自身も「ピアノ」のレッスンを受け始めた
そうです。

当時(1951年)は「戦後」の影響もあって多国籍人が日本へ訪れており「オペラ歌手」等も
多数来日していたそうですが、美輪明宏氏の興味が強かった歌手のコンサートへ足を運んで
いたそうですが、その影響もあり学生時代は「国立音楽大学付属高等学校」へ進学するため
上京したそうです。

しかしご実家の事情で高校を続けることが困難となり「中退」、その後「進駐軍」が行っていた
キャンプ施設に出向いて「ジャズ」を歌唱していたそうです。

このキャンプ施設での「歌唱経験」が後に自身の「プロ・ジャズ・シンガー」の始まりと語って
いるそうです。

その後ご自身「17歳」の時に「路上生活(ホームレス)」を行っていた新宿駅から離れた
新橋駅付近の銀座7丁目にあったシャンソン喫茶「銀巴里」が行っていた「美少年募集」の
広告チラシを見て応募し、見事合格したことがきっかけで「歌手デビュー」を果たしました。

美輪明宏氏はシャンソン喫茶(銀巴里)と「専属契約」を結んだことで歌手としての活動幅が
一挙に広がり、シャンソン喫茶(銀巴里)に来るお客さんの評判も上々で沢山の方々の耳に
美輪明宏氏の「美声」が届けられました。

するとその美声が著名人達の耳にも入るようになり小説家で超有名な「三島由紀夫氏&吉行
淳之介氏&大江健三郎氏&遠藤周作氏&なかにし礼氏」さらに作家や歌手の「野坂昭如氏&
寺山修司氏」、ファッションデザイナーの「中原淳一氏」等から「国籍・年齢・性別」など
一切分からない未詳の「青年」なのに支持されていたそうです。

ちなみに当時から「ジャズやシャンソン」好きであった名司会者の「黒柳徹子」さんも噂を
聞きつけお店を訪れていたそうです。

特に小説家で「政治活動」も盛んに行っていた「三島由紀夫」氏からの支持が大きく「天上界の
美」として絶賛されていたようです。

文化人達からの支持もあり人気が上昇する中、1957年にフランスで人気を博していた
シャンソン曲「メケ・メケ」を美輪明宏氏が「日本語カバー」を行い自ら歌唱し、今までの
日本人シンガーでは見た事ない「洋装」を身に纏いユニセックスファッションの「艶やかな
容貌」で登場する度に人々の心を奪い去り、一挙に人気を博しておりました。

人気と共に世間からは「性別」に注目が集まるようになると当時の週刊誌を通じて自ら「同性
愛者」であることを公表すると、当時の日本では「男女差別」が大きかった事も影響して
一挙に人気にブレーキがかかりました。

しかし、その事実から「めげずに」作詞・作曲活動を行いシャンソン歌手として舞台に上がり
歌手活動を続けていたそうです。

すると1964年に作詞・作曲した「ヨイトマケの唄」をステージで披露すると一挙に人気が
再加熱し始め、その勢いのまま1966年に「レコード化」されると人気は全国区へと広まり
一流シャンソン歌手として認め受け入れられる存在へと育ちました。

「シンガー」とし成功すると「舞台女優」にも興味を持ちだしたのか?1976年からは
「舞台」へ上がることが増え始め「青森県のせむし男」や「毛皮のマリー」などの作品に
出演していたそうです。

更に「女優業」も盛んに行うようになるとテレビドラマ・映画・舞台などでマルチな活動が
目立ちだし、自身の大きな転機となるTBSラジオ「ラジオ身の上相談」に出会います。

ラジオではMCを務め聴取者からの電話相談に応じ「身の上相談や悩み事」などに答え、
徐々に「シンガー」から国民の「人生相談人」へとイメージ転換されて行きました。

尚、この当時は「俳優・丸山明宏」氏の芸名で活動なされており「美輪明宏」氏の芸名に
改名したのが1971年です。

改名理由は、突如「美輪」の文字が浮かび上がったそうで姓名判断したところ「完全無欠」の
画数だった事から「神が与えてくれた名前」だと判断し命名したそうです。

その後はご存じの通り芸能界で大成功を収めているので、まさに「神の名」であったと言っても
過言ではないでしょうね!

その後は「歌手」としての活動を盛んに行うようになり、都内でのライブや全国各地に足を運び
リサイタル公演を精力的に行い更に人気に拍車をかけて行きます。

しかし1978年に「慢性気管支炎」を発症し「歌手」活動が困難になると一時休業し、演劇の
仕事を多く熟すようになったそうで、シャンソンで最も有名でポピュラーでもあった世界でも
親しまれていた曲「愛の讃歌」を自作自演で披露し始めていたそうです。

「慢性気管支炎」発症後は仕事を自粛したりして治療を心がけてはいたものの「療養」を
取らなかった事もあってか?症状は一向に改善されず医師からは「余命三ヶ月かも?」等と
告げられた事実もあったそうです。

その事もあって「吹っ切れた」のか?歌手活動を再開し舞台や地方公演などを精力的に熟し
時にはご自身が舞台へ立てない日もあったそうですが、公演は中止することなく続けて
いたそうです。

すると「奇跡」が起こり、1993年に「再三」悩まされていた「持病」から突然解放され
嘘のように病が完治し、念願でもあった「舞台」を再開することができたそうです。

舞台の成功により、小説家「三島由紀夫」氏から長年(30年来)待ち望まれていた美輪氏が
演出・主演する舞台「葵上・卒塔婆小町」が公開され、「三島由紀夫」氏から「絶賛」を
受けたそうです。

21世紀に入るとテレビ出演が多くなり、大物ミュージシャン「サザンオールスターズ」の
ヴォーカル「桑田佳祐」氏が自身の番組で「ヨイトマケの唄」を歌唱したことで、この楽曲に
新人類が注目し始めるようになります。

その後2004年にはジブリアニメ映画でお馴染みの「ハウルの動く城」で「声優」に抜擢され
「荒れ地の魔女」役で出演を果たしました。

また、翌年2005年から始まったテレビ朝日系列で放送されていたお悩み解決トーク番組
「オーラの泉」への出演が決まり、スピリチュアルアーティストの「江原啓之」氏と共演し
出演したゲストの「前世・守護霊」等を霊視しアドバイスする番組内容で放送されました。

その後もテレビをメインで活動し、各局のバラエティー番組やトーク番組に出演することが
たまにあり公で見かけることがありましたが「シンガー」として見ることがほとんど
なくなりました。

しかし2012年の暮れに行われたNHKの冠番組「第63回紅白歌合戦」への出演が決まり
自身の紅白初出場、更に年齢77歳での出演は「紅白史上最年長記録」を打ち立て、代表曲
「ヨイトマケの唄」を披露しました。

その後も紅白に出演し続け「第63回~66回」まで途切れることなく出演したところ、
自身が更新した「史上最年長記録」を更新し、更に史上初の「80代」での出演を果たしました。

 

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◇ いつまでも「若い」美輪明宏氏もついに!

 

美輪明宏氏は若い頃「イケ・メン」として有名でした。

もかしたら「イケ・メン」の言葉は美輪明宏氏の存在があったから「生まれた言葉」かも?と
思わせるだけの「格好良い男性」でした。

 

引用元【インスタグラム(newnorix)】

 

長野県長野市ご出身の「生粋の日本人」なのにお顔立ちが「ハーフ」っぽくて目鼻がクッキリし
面長なところから「シティーボーイ」感を漂わせる男性でした。

そのため若い頃から「美声」は元より「美貌」に注目していた文化人が多数おり、その中でも
特に小説家で政治運動にも積極的だった「三島由紀夫」氏が特にお気に入りだったらしく、
若い頃からの「付き合い」のようです。

作家「三島由紀夫」氏とは美輪明宏氏が歌手デビューを果たすきっかけとなった東京銀座
七丁目にあったシャンソン喫茶店(銀巴里)で知り合い、当時「三島」氏は小説家として
駆け出し中の若手作家として有名だったらしく「気鋭の新人作家」等と呼ばれていたそうです。

そんな「三島由紀夫」氏はシャンソン喫茶店(銀巴里)の常連だったようで、ある日から店員を
していた美輪明宏氏に気づき、あまりにも「異彩」を放っていたことから興味を抱き「隣席」に
呼んだそうですが見向きもせず無視され、チップを弾んでも承知しなかった事から「店主」に
頼んで無理やり自分の席に呼んだとの名話があるそうです。

「三島由紀夫」氏は間地かで美輪明宏氏を拝見し、その行動や姿を見て「天上界の美」と
絶賛したそうです。

その後「美輪明宏」氏はすっかり美輪明宏氏の「虜」となり自身が手がけた作品の舞台に彼を
多数出演させて行きます。

その作品の中でも注目されたのが1968年に「江戸川乱歩」氏が原作で「三島由紀夫」氏が
脚本を担当した舞台「黒蜥蜴」で、美輪明宏氏が「主演」に抜擢されました。

それ以降の「三島由紀夫」氏が手がける作品に関りを持ち、世間からは「恋愛説」が浮上する程
仲が良いとされ、映画化された「黒蜥蜴」では「キスシーン」があるとのことで自ら出演を
行ったそうです。

しかし「美輪明宏」氏は彼に対し全く「恋愛感情」は持てず「男女の関係」は拒んでいたそうで
後に「三島由紀夫」氏から「キミの唯一の欠点は俺に惚れない事だ」等と呼ばせたそうです。

当時の三島由紀夫氏はたくさんの「名作」を世に送っていた事や政治活動にも尽力していたので女性からモテモテで「恋多き男性」として知られていましたが、そんな彼を「虜」にするほど
「美輪明宏」氏は「美声と艶麗」の持ち主で、しかも他の著名人からも人気を博しておりました。

しかし、そんな「美輪明宏」氏も高齢化には勝ることができずこの度「脳梗塞」を発症した
ようです。

三島由紀夫氏は自身の「生涯」を自らの手で奪い去りましたが、そんな彼の盟友?でもある
「美輪明宏」氏には長生きして頂きたいものです。

 

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◇ 美輪明宏氏はハーフなん?

 

何度も書きますが「美輪明宏」氏は長野県長野市ご出身の両親共日本人から生まれた「生粋の
日本人」です。

ただ、生まれ持ったお顔立ちが「ハーフ」っぽくて目鼻がクッキリした「容姿端麗」の日本人で
あることから「ハーフ」と間違われるケースが多いそうです。

その日本人離れした容姿を称したメディアからは「神武以来の美少年」等と呼ばれていた時代が
あったそうです。

それを意識したのか?高齢になってからは髪を金髪(黄色)し更にハーフっぽく見られがちですが
実は髪の色を変色にしたのには訳があって様々な「病気」を発症した中で「肺」を患った際に
一気に「白髪」へと変わり、イメージが悪くなった事とその当時の風水説よりロングヘアーを
「黄色」にすると運気が恵まれるとのことから髪色を変色したそうです。

「ハーフ」に似せる?ことは一切関係がなかったそうです。

 

引用元【インスタグラム(y_taku802)】

 

 

一方で「美輪明宏」氏は昔から世界的シャンソン歌手として超有名なフランス人「エディット・
ピアフ」の大ファンだったらしく、彼女を意識するあまり「外国人」に憧れ「シャンソン」の
本場でもあるフランス人に似せるため変色している!との噂もあるそうです。

ただ「愛の伝道師」とか「霊感が強い」などで有名な「美輪明宏」氏から見ると、やはり
「風水を信じて」との事情であれば収まりが付く?と思われますが・・・?

いずれにしても「ハーフ」に見られることに対する抵抗は一切ないようです。

 

 

■ 美輪明宏プロフィール

本名
丸山 明宏
読み
まるやま あきひろ
生年月日
1935年5月15日
仕事
歌手・俳優・タレント
出身地
長崎県長崎市
所属事務所
オフィスミワ
血液型
A型

 

 

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