建築家 鈴木エドワード氏脳卒中で死去!喪主は奥さん高橋百合子さん!

 

日本を代表する建築家として有名だった「鈴木エドワード」氏が2019年9月15日
午前1時35分頃、東京都内の病院で「脳卒中」のためお亡くなりになったことが分かりました。

享年71歳でした。

 

引用元【ツイッター(architect_tokyo)】

 

今後の予定としては葬儀の喪主は奥さんの「高橋百合子」さんが営み、会場は「東京都港区
西麻布3-21-6 カトリック麻布教会」で執り行われるそうです(21日午前10時半から)

お亡くなりになられた詳細は分かっておりませんが71歳の若さでこの世を跡に成されり、
「脳卒中」との事なので「急死」の可能性が高く「悔いの残る」人生となってしまったのでは!

建築業界では数々の「賞」を受賞されている素晴らしい人材で、これから建築家を目指す若者の
「お手本」としてのご活躍が期待されていただけに非常に大切な人を失くしてしまいました。

今回は、そんな「鈴木エドワード」氏を追悼の意味でも注目して見ました。

 

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◇ 故・鈴木エドワード氏の昔

 

鈴木エドワード氏は1947年9月生まれの71歳(2019年)で、ご出身は「埼玉県」です。

お名前の「鈴木 エドワード」はご本名との事なので、核心はありませんが多分ご両親が日本人
以外の他国籍で「ハーフ」として誕生した可能性が高いです。

幼い頃から「建物」が好きだったお子さんらしく、早い段階から「建築家」を夢見ていたそうです。

ご出身は埼玉県「狭山市」なので地元の小・中学校に通われていたと思われ、ご卒業された
高等学校は分かりませんが、ご卒業はアメリカ・インディアナ州にあるカトリック教会
「ノートルダム大学」にご入学され「建築学」を学んでいたそうです。

その後1971年(昭和46年)に同大学をご卒業され、本格的に「建築家」としての人生を
歩みだしました。

しかし「建築家」としての「技量や知識」が足りないと感じたのか、その後アメリカ・
マサチューセッツ州ボストンにある「ハーバード大学」に通われております。

どのようにご入学されたのか?分かっておりませんが、1975年に大学院を「修了」して
「アーバンデザイン建築学修士(MAUD)」を授与されました。

その後、同年帰国し日本の建築界で大手として知られていた「丹下健三都市建築設計事務所」に
在籍し建築士としての腕前を披露していたそうです。

たった一年ではありましたが「建築士」としてのデザイン能力・技量・知識などがご自分の中で
「画一」したのか?翌年の1976年に同事務所を辞めて「独立」する事としたようです。

そして翌年の1977年に自身の悲願でもあった個人事務所「鈴木エドワード建築設計事務所を
設立したそうです。

その後は仕事に没頭し東京都内のみならず各地の構造物・建築物に携わり、日本人建築家としての
名誉をドンドン築き上げて行きました。

特に毎年行われる各社のイベント「グッドデザイン賞」等に、1993年に「JR東日本社」の
山形県南陽市郡山にある「赤湯駅」のデザインを手がけ「やまがた景観デザイン賞」を受賞すると
それを皮切りに毎年のように「デザイン賞」を獲得しておりました。

特に私の故郷でもあり生まれ育った地、秋田県大仙市(旧大曲市)のJR駅をリニューアル際、
建築に携わって頂いたようで、こちらでも通産省より「グッドデザイン賞」を獲得されて
おられます。

完成時はとても「近代的な建物」で「大曲の花火」で有名な土地に相応しい未来型建造物を頂き
訪れる観光客・あるいは花火ファン達の心にインパクトを与えております。

 

引用元【インスタグラム(kohalu525)】

 

そういえば以前、1987年頃の日産自動車”セドリック”のCMで音楽家の「坂本龍一」氏、
ファッションデザイナーの「菊池武夫」氏と共にご出演されておられました。

失礼ながら、私は「鈴木エドワード」氏の実物を見たのはそれが初めてでした。

なので記憶に鮮明に残っております。

その後はご年齢相当の仕事を熟しておられたようですが、残念ながら「脳」のご病気で
この世を跡にされました。

本当に生前のご活躍に敬意を払い、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

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◇ 鈴木エドワード氏の奥さんは高橋百合子さん!

 

この度、お亡くなりになられた「鈴木エドワード」氏の奥様は「イーオクト株式会社」代表
取締役の「高橋百合子」さんです。

交際を始めた馴れ初め・ご結婚の年月・子供達に関する事・・・詳しい情報は何もありませんが
高橋百合子さんのご職業は、元は「新聞会社」に勤務されていたようで、バリバリのOLとして
ご活躍されていたのでしょう。

その後1987年に同会社を退職し「起業家」として自身の会社を立ち上げたそうです。

たぶんこの会社が現在の「E.OCT」だと思われます。

こちらでは元務めていた「新聞会社」で学んだ広告業の「いろは」を活用し「広告制作」や
「展示会のプロデュース」など、幅広いニーズにあった業務を手がけているそうです。

近年では自身が訪れた「スウェーデン」で見かけた「ゴミ圧縮機器」に感動し「輸入販売」を
行っているそうです。

現在の会社のモットーは「環境に配慮されたサスティナブルな社会づくりを目指す」のようで
マルチな業務を積極的に扱い環境重視の社会構築を目指しているようです。

 

 

引用元【ブログ(岡田美里オフィシャルブログ)】

 

 

■ 鈴木エドワードプロフィール

本名
鈴木エドワード
読み
すずき エドワード
生年月日
1947年9月18日
仕事
建築家
出身地
埼玉県狭山市
所属事務所
鈴木エドワード建築設計事務所
血液型
?型

 

 

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井筒親方(逆鉾昭廣)すい臓がんで死去!娘は元タカラジェンヌ福薗清香さん!

 

大相撲横綱「鶴竜」の師匠「井筒親方(逆鉾昭廣氏)」が2019年9月16日に都内の病院で
「すい臓がん」のためお亡くなりになったことが分かりました。

享年58歳の若さでお亡くなりになられました。

 

引用元【ツイッター(ライブドアニュース)】

 

現在、通夜・告別式などの日程は明らかにされておらず、後に相撲協会から正式な発表など
行われるものと思われいます。

追記)告別式は9月25日午前11時から東京都墨田区両国2-2-7 井筒部屋で執り行われる。

井筒親方は2019年に行われた「夏巡・秋巡業」を休場しており秋場所でも「体調不良」で
場所前に本場所を休場することを告げ「都内の病院」に入院しておりました。

その後16日に突然、容体が急変し入院中だった都内の病院で帰らぬ人となってしまいました。

周りの関係者は「あまりにも突然の急死だったのでビックリしています。信じられません」等と
伝えているようですが「沈黙の病」として有名な「すい臓がん」であっても以前からそれなりに
「兆候」はあったはずです。

「病名が分かって直ぐに死去」なんてあり得ない話です。

更に親方は以前から、持病の「糖尿病」あるいは「白内障」、本場所中に力士の体当たりによる
「骨折」などで病院に何度も足を運んでおり、特に「糖尿病」は血液検査を重点に診察される
病なので「腫瘍マーカー」のチェックもなされていたはずです!

なので「突然死=すい臓がん」とはならないはずで、以前から疾患に気づいていたはずです。

もしかしたら「病(余命)」が分かっていた上で相撲協会の仕事に慢心していたのかも?です。

なのでお亡くなりになる直前に、弟子「鶴竜」のケガによる休場は非常に痛かったし、それが
病を悪化させた一つの原因なのかも・・・今になればそんな憶測すら感じてしまいます。

横綱「鶴竜」関は自身の「直弟子」であり唯一横綱まで育て上げた力士なのですから井筒親方
ご自身も「自慢の関取」であったはずです。

それが不幸にも本場所をケガ(左膝内側側副靱帯損傷)で休場し、更に弟子の「不運でのケガ」が
原因で今年度で引退することが発表されたり・・・と「不祥事」が続いたことも親方の生命を
縮めた要因になったことは間違いないでしょう。

本当に日本を代表する伝統スポーツ「相撲」の人気や発展にご尽力された力士として
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

引用元【インスタグラム(marikatu0808)】

 

井筒親方は1961年6月生まれの58歳(2019年)で、ご出身は「鹿児島県」です。

意外にも現在「芸能人お墨付きの高校」で有名な「目黒高校」にご入学されていたそうで、
そこから「大相撲の力士」になることを志していたようです。

しかし理由は分かりませんが同学校を「中退」し、直ぐに相撲道に入るため「井筒部屋」へ
入門したそうです。

稽古真っ盛りの、1978年1月の「初場所」で自身の相撲人生で初となる「初土俵」を
踏んだそうです。

その後は「本場所・巡業や出稽古」を繰り返し行い力をつけ、1981年7月場所で、自身の
兄でもあり同じ鹿児島県出身の「鶴嶺山関」と共に「十両」へと昇格したそうです。

しかし同年の場所で直ぐに「負け越し」を食らい降格(幕下)。

ただこの「負け越し」がご自身の相撲道の良い経験となったそうで、直ぐに勝ち星を増やしだし
「十両」へと復帰しました。

その後1984年7月場所で自身初となる「関脇」に昇格し、「小結」を飛び越えての昇格は
相撲ファンや関係者の「度肝」を抜き、広く話題になっておりました。

しかし「三役」までは進むものの中々「横綱」までは手が届かず「各賞」は獲得するものの
本場所での「優勝」経験が少なく引退後の最高位は「関脇」で終えています。

むしろ本業「相撲」よりも自らの「立ち振る舞い」や「プライベート」での出来事などを
「ネタ」にされるケースが多く、土俵上での「ガッツポーズ」が問題視されたり弟力士の
「寺尾」が負けた際の振る舞いをネタにされたり、更に昔からの因縁の相手「千代の富士」との
「確執問題」等で相撲ファンや関係者から注目を浴びておりました。

ただその甲斐あって「相撲の人気」は低迷することなく日本の伝統スポーツとして世界から
注目される「国技」となって有名スポーツの一つとなって行きます。

平成に入り国内では「花田兄弟」の登場で、更に相撲人気に拍車が掛かり「場所」が始まると
凄まじい相撲人気で国技館は連日「満員御礼」の幕が垂れ下げられておりました。

しかし関脇・逆鉾関は年齢の高齢化と共にドンドン体力が減り、以前「もろ差しの名人」として
相撲巧者の名で相撲ファンを沸かした力士とは思えぬほど衰え、更に下からは「若手力士」が
ドンドン登り詰めて来ていたので「三役」としての立場が危うくなり「負越し」優先の
取り組みが増え始めておりました。

またその姿を伝えるメディアからも散々突かれ?「殊勲賞5回・技能賞4回を獲得した力士とは
思えぬ取り組みだ!」等と叩くマスコミも増えておりました。

さすがに「精神的」にも滅入り、成績も「十両」まで降格したこともあって1992年9月に
現役を引退しました。

現役引退後は「年寄り14代目 春日山」を襲名し井筒部屋の代理親方として所属力士・後輩
力士の練習に力を入れ、後に師匠であった井筒親方の「定年」に伴い、自ら「井筒」の名を
後継し部屋を継承して行くことになりました。

その後は部屋の拡大・更に所属力士の成長や昇進に尽力し、ご存じの通り井筒部屋から「横綱・
鶴竜」関が誕生するまで「大きな発展」を成し遂げております。

さらにご自身も2014年に相撲協会の「副理事」に就任しました。

また2002年から務めている「勝負審判」も継続して行い、その功績から後に「審判長」に
抜擢されました!がこれが痛い目を見ることに・・・?

2016年3月場所で、八日目結びの一番で審判長を行っていた際、横綱「白鵬」が寄り切って
対戦相手の「嘉風関」の負けが確定したにも関わらず、更に押し込んで土俵下へと転落した際
審判していた親方が巻き混まれ「左足骨折」の重症を負わせたのです。

その時に横綱・白鵬が無理やり土俵下に「突け落とした!」として「疑惑」が浮上し、一時期
横綱・白鵬が「悪者呼ばわれ」されて話題になっておりました。

なので井筒親方は「現役当時」からですが、結構「事欠かさない人物」で、時折様々なネタを
定評してくれていたので、ある意味本当に日本の相撲界を盛り上げて頂いた人物の一人でした。

本当に相撲協会、並びに相撲ファン達にとって「貴重な人材」を失ってしまったことに
残念でならないことだと思います。

生前のご活躍、本当に感謝申し上げます。

 

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◇ 井筒親方の娘さんは元タカラジェンヌ?

 

実は井筒親方!現役当時から「話題に事欠かさない人物」として有名でしたが、それを物語る
出来事がありました。

それは2012年9月場所での現役引退後「井筒部屋」を後継し自らも「井筒」を改名して
部屋を盛り上げていたのですが、部屋を「継承」する際に放たれたトークで相撲ファン・
関係者・更にメディアの「度肝」を抜いたのです。

なんと!1994年5月、丁度親方が「低迷時期」に入っていた頃、既にご結婚を果たしており
更に七歳の大きな娘さん(長女)が居たことを公表したのです。

しかも!その娘さん、後に「タカラジェンヌ」になり花組の娘役「天咲千華」の名でご活躍
していたのです。

 

引用元【インスタグラム(chihana.a)】

 

宝塚歌劇団を引退後(2011年)は都内で「ヨガインストラクター」としてご活躍中らしく
「chihana」先生として生徒の皆さんに親しまれているそうです。

私は母親、つまり井筒親方の奥さんは見たことがありませんが娘さん&父親を見る限り、凄く
「美人さん」であることは言うまでもありませんね!

「天咲千華」こと「福薗 清香」さんは宝塚歌劇団を引退後すぐに「ヨガインストラクターの
養成学校」に入学していたらしく、そこで「ヨガ」を勉強し今に至っているようです。

また趣味は「マンガ・アニメ」の鑑賞、「ゲーム」等で「今どきの若い娘さん」的な感じの
女性のようです。

宝塚歌劇団ファンなら誰もが知っている役者さん?なのでしょうか?

 

 

■ 井筒親方プロフィール

本名
福薗 好昭
読み
ふくぞの よしあき
生年月日
1961年6月18日
仕事
元井筒親方
出身地
鹿児島県
所属事務所
元井筒部屋
血液型
A型

 

 

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スキージャンプ金野昭次氏死去!元日の丸飛行隊!下咽頭がんが原因?

 

1972年(昭和47年)開催の札幌冬季五輪で「スキージャンパー」としてご活躍された
「金野昭次」氏が2019年9月5日に道内病院(札幌市)で「下咽頭がん」のため
お亡くなりになられた事が分かりました。

享年75歳でした。

 

引用元【ツイッター(Yahoo!ニュース)】

 

金野昭次氏は生まれも育ちも「北海道(札幌市)」で幼い頃から「雪」と一緒の生活を送って
おりました。

そのため小学校3年生の頃からスキージャンプを始め、若い頃からスキージャンプ一筋の
生活を送っていたそうです。

地元の小学・中学をご卒業後、北海道札幌市豊平区にある「北海高等学校(男子校)」へと進み、
青春時代を送っていたそうです。

この高校からご卒業された著名人は何人もいるそうで俳優の「千秋実」氏、落語家「三笑亭
夢之助」氏、お笑いコンビ(タカトシ)のタカ(鈴木崇大)氏、女優「二階堂瞳子さん&
中川梨花さん」などの芸能人、更にスポーツ選手・政治か・経済学者など層々たる人物が
ご卒業されておられいます。

その中で「金野昭次」氏も元冬季五輪選手で「北海道冬季オリンピック」ではスキーキャンプ
70m級で金メダルを獲得し「日の丸飛行隊」と呼ばれるようになって国民から広く
親しまれていた名選手でした。

北海高等学校をご卒業後は上京し、東京千代田区にある「日本大学」へご入学し同学校の
「スキー部」に入部し、出身地が同じ「北海道」でスキー指導者では評判が高かった「八木
祐四郎」氏のもとで、スキーキャンプの指導を受けていたそうです。

八木祐四郎氏のもとで期待挙げられたジャンパーは直ぐに頭角を現し、1968年に開催された
「グルノーブルオリンピック」のス―ジャンプで日本代表に抜擢されました。

自身初の「五輪出場」でもあったことから緊張したのか?得意の「70m」級では成果を
収めれず24位、更に90m級にも出場しましたが20位で終えました。

その後「五輪選手」としての自覚を持ち毎日の鍛錬に磨きをかけて来た1972年!
地元日本で開催された「北海道オリンピック」にて得意の70mでは「銀メダル」を獲得し
また同級で出場していた日本選手の「笠谷幸生」氏が金メダル、「青地清二」氏が銅メダルを
獲得し、表彰台を日本人ジャンパーで埋め尽くしました。

その姿を見たメディアの担当者から「日の丸飛行隊」等と呼ばれると、そのニックネームは
直ぐに国民に馴染み、広く親しまれるようになったと同時に50代世以上の人々の記憶には
今でもその「チーム名」が残っているはずです。

またチーム内での戦いの際は毎回「先頭ジャンパー」であったことから「日本の切り込み隊長」
等と呼ばれ、会場に詰めかけていたスキージャンプファンやお茶の間から注目される選手でも
ありました。

その後1976年に開催された「インスブルックオリンピック」でもスキージャンパーとして
日本代表に抜擢されましたが、得意の70m級や90m級の出場に至らなかったそうです。

その後、スキージャンプファンから惜しまれつつも「現役を引退し」銀行の営業マンとして
新たな人生をスタートさせたそうです。

サラリーマンで働いていた1998年に、地元日本で開催された「長野オリンピック」では
「聖火リレー」のランナーに選ばれ、地元札幌市をスタートし東日本ルートの架け橋を行った
そうです。

その後についてはあまりよく分かっておりませんが、地元北海道札幌市で生活をしていたそうで、
昨年(2018年)から体調不良のため病院通いを行っていたところ「がん」が見つかったそうで
闘病の日々をおくっていたそうですがこの度「下咽頭がん」によって帰らぬ人と旅立って
しまいました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

■ 金野昭次プロフィール

本名
金野昭次
読み
こんの あきつぐ
生年月日
1944年9月1日
仕事
元スキージャンパー
出身地
北海道札幌市
所属事務所
血液型
—型

 

 

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大村彦次郎が下咽頭がんで死去!月曜NHKラジオアーカイブスでご活躍!

 

日本の文芸作家で編集者の「大村彦次郎」氏が2019年8月30日に「下咽頭がん」のため
お亡くなりになられたことが分かりました。

享年85歳でした。

葬儀や告別式は「近親者」によって既に執り行われ、葬式の喪主は長男「彦太氏」氏が営んだ
そうです。

今後「お別れ会」などの開催は未定で、お亡くなりになられてから、しばらく経ってからの
死去発表だった為、執り行われない可能性が高いです。

「がん」でお亡くなりになられたそうで、ご身内の方々は嘸かし寂しい思いをされておられると
思いますが、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

大村彦次郎氏は旧東京市「茅場町」生まれで育ちは「日本橋」のようです。

最終学歴は「早稲田大学政治経済学部」卒で、大学時代から「記者」としてご活躍されて
おられました。

そのため「経済」だけではなく「文学」にも興味があったらしく大学時代に「編入学制度」を
利用して「文学部国文科」でも学んでいたそうです。

その後1959年に大学をご卒業され、当時の学部長(現:教授)谷崎精二氏の紹介で大手出版社
「講談社」に入社されたそうです。

「講談社」に入社すると直ぐに編集者としての才能が開花し、1969年に当時「大衆向け
小説誌」として広く読まれていた「小説現代」の2代目編集長に就任されご活躍されました。

大村彦次郎氏が就任後、小説誌に当時の「流行」を取り入れたり斬新な発想で時代に会った
小説を描いたりしたことで社内外からの批判を受けることもあったそうですが、自身の考えた
作品を貫き後に大ブームとなる「小説」や「小説家」をたくさん作られたそうです。

当時「小説人気」も手伝ってか?1作品がヒットすると、その作品が「シリーズ化」する傾向に
あり一度「ヒット作」を手がけた小説家は直ぐに「人気物」となっていたそうです。

1971年3月号に連載された小説家「笹沢佐保」氏の作品「赦面花は散った」では、その作品が
「派生」して生まれた作品「木枯し紋次郎(主人公の異名)」は1972年にフジテレビ系列の
番組として「テレビドラマ化」され日本国民に広く認知され、更に1972年には映画会社
「東映制作」によって映画化されていましたね!

主演には超大物俳優の「菅原文太」氏を抜擢し話題性を作り、既に作品は国民に知れ渡って
いたので「木枯し紋次郎」の名は現在の40歳以上の方なら誰もが知っている作品名として
今でも記憶されている方が多いはずです(私もその一人!)

私は「原作」の方は見たことがありませんが、劇場版の方は小さい頃に見た経験があり、
名俳優「菅原文太」氏の演技に魅了されたものです。

その後も「小説現代」の人気は続いていたものの1980年頃からは「小説」人気も低迷し始め
更に他の小説誌も増えたことで「強豪」が起こり人気に拍車がかかってきます。

その後1991年に「講談社」を退職し、2000年頃まで勤めていた「短歌研究社」社長職と
「日本ペンクラブ」の理事職でご活躍されておりました。

ただ個人で小説活動は続けていたそうで1999年に手がけた作品「文壇栄華物語」では日本の
「文学賞」の一つでもある「新田次郎文学賞」の18回で受賞され、2006年の作品「時代
小説盛衰史」では「第41回長谷川伸賞」や「第19回大衆文学研究賞」の両方を受賞されて
おられます。

まさに「文芸小説家」としての道を貫き、または古来小説の「評論家」として日本を代表する
「文芸人」のお一人でした。

ちなみに、ご自身が「2代目編集長」としてご活躍された「小説現代」は今も続いておりますが
最近では「インタ―ネット」の普及によって「メディア媒体」も豊富になったことから「電子
書籍版」なども開始されています。

その後2018年9月に一度「休刊」されており「内容の見直し」が行われているそうです。

その最中に「大村彦次郎」氏の訃報が伝えられました。

 

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◇ 大村彦次郎氏はNHKラジオアーカイブスでご活躍

 

生前、大村彦次郎氏はNHKが毎週月曜日夜8:30~放送している「ラジオ.アーカイブ」に
ご出演されてご活躍されておりました。

この番組には2016年頃までご出演され、戦後「娯楽の少ない」時代に国民から親しまれていた
「NHKラジオ」から放送される「戦争の跡」がまだ生々しく伝えられていた時代に人気が
あった「作家」や「芸能家」などにスポットを当て文芸評論家の「大村彦次郎」氏の解説と
NHKラジオを代表する番組司会者であった「宇田川清江」氏との巧みなトークで「明治~
大正~昭和」にかけて活躍された方、あるいは作品などの「アーカイブ」を紹介する番組です。

もちろん「若者向け」の番組ではありませんが、戦後生まれの方なら一度は耳にしたことのある
小説家や小説文などが登場すると、若き時代を思い出すお年寄りの方がたくさんいたそうです。

まさに日本に残る「カルチャーラジオ」として「文芸文化」を支えているラジオ番組です。

 

 

■ 大村彦次郎プロフィール

本名
大村彦次郎
読み
おおむら ひこじろう
生年月日
1933年9月27日
仕事
編集者・文芸評論家
出身地
東京都
所属事務所
元講談社
血液型
—型

 

 

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エスパー伊東 脳梗塞入院!芸能界引退してない?結婚式ギャラがヤバい!

 

2018年の年末頃から「右変形性股関節症」の治療に専念するため芸能界を休業している
お笑い芸人の「エスパー伊東」氏が治療中に「脳梗塞」も患ったことが分かり話題になって
おります。

 

引用元【インスタグラム(esper.110)】

 

情報元は友人で「金銭面」を援助していると言われているお笑いタレントの「ビトタケシ」氏が
語ったことで発覚し、現在「入院中」であることが明らかとなりました。

エスパー伊東氏は「身寄りが居ない」のか?しばらくの間「老人ホーム」へ入居する予定らしく
そこでリハビリを行いながら芸能界復帰を望んでいるそうです。

元々エスパー伊東氏は「右変形性股関節症」を発症した際「過度な眠気」が頻繁に起こると
言っていたので、もしかしたらその時点で「脳」に何らかの障害があった可能性も考えられます。

何かと「お騒がせ芸人」でしたが、病気治療も一筋縄では行かないようで芸能外でもマスコミを
騒がせているようですね!

エスパー伊東氏は以前から「活舌」が悪く細身の体質であったことから「病気がち」に見られ、
更に「早口」で喋ることから何を言っているのか?分からないこともあり「芸風」だと
思いますが「脳」に異常がある人物だと私は思っておりました。

しかし「細身の体質」でありながらやることが「破天荒」で体を張ったパフォーマンスで
お茶の間を楽しませていました。

話によると以前「過激な芸」で日本では超有名なパフォーマンス集団「電撃ネットワーク」に
加入していた時期があったそうで、ピンになってからも元気な時は同じ舞台でパフォーマンスを
披露していたこともあったそうです。

その後、突如テレビ番組に多く出演するようになり「クダラナイ」パフォーマンスと失敗芸が
「持ち味」として笑を誘うようになって行きました。

確か私がエスパー伊東氏を初めて見たのがフジテレビ系列で放送されていたバラエティー番組の
「めちゃ×2イケてるッ!」だったと記憶しておりますが、自称「高能力者」と言いつつ行う芸は
「ボストンバッグ」の中に体を丸ごと入れるネタを披露し「微笑」を得ていましたね。

ただ、そのネタの後に司会者によって「顔を出したボストンバッグ」そのまま強制撤去され、
番組からフェードアウトすることで爆笑を買っておりました。

 

引用元【インスタグラム(esper.110)】

 

同番組内では「マンガ」を披露することがたまにあったのですが、意外にもその腕前はかなり
高く「絵心」を持ったエスパーとして共演者から絶賛されておりました。

その後2003年4月にあった「詐欺事件」に巻き込まれ御祝儀として出した「3万円」が
騙し取られたとしてメディアを騒がせておりました。

この事件に巻き込まれた被害者は相当数いたのですがマスコミの取材を嫌ってなのか?誰も
受け入れず「エスパー伊東」氏のみ全面に出て対応に答えていたことで、この事件で一番
注目されたのが「エスパー伊東」氏となった形になっておりました。

ご本人も後に「営業が増えた」と語っていたそうです。

その後しばらくメディアから姿を消し消息が分からなくなっていたのですが、どうも地方で
営業活動を行っていたらしく特に「結婚式の余興」をメインに活動していたそうで、全国からの
依頼に答えていたそうです。

「おめでたの席」での営業だったことが功を称したのか?一口当たりの営業額がかなり高かく
自身曰く「年に2000万円」近く稼いでいたと暴露しております。

その後はたまにメディアで見かけることがあったものの公の場で姿を見ることはほとんどなく、
「地方営業」を行っていたと思われておりました。

しかし2018年12月に自身の公式ブログで「関節症」の悪化のため年内を持って芸能界を
引退すると発表しました。

 

引用元【ツイッター(ギュウゾウ/電撃ネットワーク)】

 

ところが、引退発表した22日から3日目の25日に急遽「記者会見」を開きブログに記事を
アップしていた人物はご本人ではなかったらしく、「制作者」と自身の思いがズレていたことを
公にし、誤って「引退」と発表した!等と芸能界引退を撤回するコメントを発表し、しばらくは
「休業」すると訂正した会見を開いておりました。

なので今でも芸能人「エスパー伊東」氏は闘病中ですが「現役」のようです。

 

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◇ エスパー伊東氏地方営業のギャラがヤバい?

 

エスパー伊東氏は以前出演したテレビ番組で地方で行っている営業の「ギャラ」について
暴露したことがあり「30分で20万円が相場」等と答えていました。

これは以前から伝えられていた「結婚式での余興」のギャラだと思われます、時給に換算すると
時間当たり40万円です!

「お祝いの席」での余興のため金額が弾むのは理解できますが、いったいどんな「ネタ」で
20万円も稼いでいるのでしょうか?

「数十分」で一般サラリーマンの月収を稼いでしまうのですから「病み付き」になるのは
分かりますね。

もちろん「芸人」によって値段が変わって来るとは思いますがエスパー伊東氏「クラス」で
20万円は多過ぎるように感じるのは私だけでしょうか・・・?

一説によると一時期大ブレークを果たした地方営業で引っ張りダコだったお笑いコンビで
ジャージが特徴の「テツandトモ」さんで「30分40~50万近く」稼いでいたそうです。

もちろん「テツandトモ」さんの場合「大人向け」よりも「子供ウケ」が大きかったので、
結婚式の余興等よりも学校の行事等のイベントで呼ばれるケースが多かったと思いますので、
ギャラはそんなに高くなかったと思います。

しかし「営業本数」はエスパー伊東氏よりも抜群に多かったはずです。

また「二人組コンビ」の為、一人当たりのギャラは「半分」になりますね!

 

引用元【インスタグラム(saki.ibuki.hazuki)】

 

 

結婚式に限ってみれば「芸能人からのお祝いコメント!」なるものがあるらしく、一般的な
相場として「10分」くらいのスピーチで約「8万円」くらい稼ぐそうです。

時給に換算すると「48万円」ですね!

これが事実なら「税務署」が黙っていないはず!でしょうけど・・・?

「お祝いの席」とは言えあまりにも「単価」が高過ぎますね!

 

 

■ エスパー伊東プロフィール

本名
伊東 万寿男
読み
いとう ますお
生年月日
1960年12月26日
仕事
お笑い芸人
出身地
熊本県阿蘇郡南小国町
所属事務所
オフィス庄屋
血液型
B型

 

 

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長谷川龍生 詩集パウロウの鶴著者 肺炎で死去!元日本現代詩人会会長!

 

詩集「パウロウの鶴」の著者で日本現代詩人会会長を務めていた詩人の「長谷川龍生」氏が
2019年8月20日に「肺炎」のためお亡くなりになられたことが分かりました。

享年91歳でした。

 

 

お亡くなりになられた場所は「東京都内の病院」のようで、葬儀・告別式などは近親者で
行う予定で「お別れの会」などの有無は分かっておりません。

葬儀の喪主は長男の「名谷文朝(なたに ふみとも)」氏が行う予定。

長谷川龍生先生は1928年(昭和3年)6月生まれの91歳(2019年)でした。

代表作は1957年(昭和32年)ご自身29歳に書作した「パウロウの鶴」で、この詩集が
ご自身初となる第一詩集として「青土社」から刊行されている月刊誌に収録されたことで
詩人「長谷川龍生」氏の名が世に広まって行きました。

当時の日本は共産主義が強く「民意」が通じない「強引政治」であったことから、国民達らは
不安と憤りが渦巻いていた時代でしたが、長谷川龍生先生が世に送り出した「誌」によって
癒された国民が多数居たと聞いております。

長谷川龍生先生の誌の特徴は「長編詩」であることが多く、誌の愛好家から「飽きない誌」で
有名で更に誌の中には「殺意や狂気」が感じられる独特のイメージを受けることで誌ファンから
注目されておりました。

またご自身初の詩集「パウロウの鶴」では広告代理店大手の「株式会社電通」に評価され、
詩人以外の仕事として同社の「専属コピーライター」としてもご活躍されておりました。

そのライディング技術では画一的才能を発揮し「広告企画部長」などを歴任し幅広く活動されて
いたそうです。

その後1970年頃には大阪で開催された「大阪万博」で外国人の「ゲストコーディネータ」を
勤め、イベントの成功に貢献したそうです。

ご自身40歳を超えた頃から「外国」へ出向くようになり「武者修行」の意味があったのか?は
分かりませんが、アメリカやヨーロッパ・中東などを訪れ、各国民と出会いその土地の文化や
国民性などに触れて自身の誌の「世界観」を大きく広めていたそうです。

特にフランスで出会った女性をモデルにして書いたという1980年「青土社」からの出版集
「バルバラの夏」では今までに見たことのない長谷川龍生先生の誌の世界観を見せ「人間性
溢れる」作品を世に送り新たな一面を見せてくれたそうです。

またご自身の「怪奇体験」経験を元にして作られた「椎名町(ラルゴ)魔館に舞う」は詩人界では
超有名作品として知られているそうです。

その後も「誌」の世界でご活躍され「日本現代詩人会」の会長を歴任されたり、大阪文学学校の
「校長」も務めたりして、日本人詩人の発展と貢献に勤められておられました。

しかし2019年8月に「肺炎」によってこの世を去られました。

「肺炎」の原因など詳しくは分かっておりませんが、ご年齢が90歳を超えており死場所が都内
病院だったことから、ご入院されていたと思われ「風邪」等が要因となって「肺炎」を起こした
可能性が高いと思われいます。

ご高齢での「肺炎」者の姿を見ていると非常に「苦姿」をよく見にするので、先生が安らかに
旅立たれたとは思えない節があるので「苦痛」ではなかったことを願うばかりです。

先生が残してくれた「遺産」は、きっと今後の日本詩人界に受け伝えられて行くと思うので、
どうぞ安らかにご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

■ 長谷川龍生プロフィール

本名
名谷 龍生
読み
なたに たつお
生年月日
1928年6月19日
仕事
詩人
出身地
大阪府大阪市
所属事務所
元日本現代詩人会会長
血液型
—型

 

 

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グラフィックデザイナー勝井三雄氏 膵がんで死去!息子は勝井北斗氏!

 

2020年に開催される「東京オリンピック」を目の前にし、1964年に開催された
東京オリンピックで「デザインマニュアル」等の制作に尽力されたグラフィックデザイナーの
「勝井三雄」氏が「膵がん」のため2019年8月12に自宅にて他界したことが分かりました。

享年87歳。

 

引用元【ツイッター(毎日新聞東京学芸部@「カルチャープラス」始めます)】

 

葬式は妻の沙子(すなこ)さんが喪主を務め「近親者」で告別式等を既に行ったそうです。

勝井三雄氏は「戦後生まれのグラフィックデザイナー」として有名で現在の「筑波大学」を
ご卒業なされたデザイナーでした。

元々「教育学部芸術科」をご卒業なされていたので自作よりも他人に指導する「先生」としての
ご活躍も多数なされており、日本のグラフィックデザイナー育成にも尽力された人物です。

1961年頃からは自身で「デザイン事務所」を立ち上げ「フリー」としてご活躍されました。

特に「シンボルマーク」等のデザインを得意とし、東京オリンピック並びに大阪で開催された
「花の万博」では公式ポスターなども手がけ「彩色豊かな個性溢れるデザイン」で大会の
成功にご尽力されておられました。

また「デザイナーの教育」にもご熱心で、東京教育大学では「非常勤」ながら講師を務め、
更に1966年頃には東京造形大学で「助教授」を勤めていたそうです。

1987年には武蔵野美術大学「客員教授」を務め、後に「教授」としてご活動され数年後には
その努力と名誉が認められ「名誉教授」として同学校でご活躍されました。

その後は、日本グラフィックを代表する「グラフィックデザイナー協会」の会長として
更なる日本のデザイン業界の発展に貢献されておりました。

この度「膵がん」でお亡くなりになられたとの事ですが以前から病を患っていたのでしょうか?

病気に関して詳しい情報が伝えられていないので生前の状況が把握できませんが「膵臓」等は
「沈黙の臓器」とも略される程、病気の進行が見つかり難い「不治の病」として有名ですが、
勝井三雄氏も「膵がん」が見つかった際、相当ステージが進んでいたと考えられます。

またお亡くなりになれれた場所が「ご自宅」だった事から、病院での治療を終えてご自宅に
ご帰還されていたものと容易に想像がつきます。

なので少なくともご家族・ご親戚・ご近親者の皆様の元で旅立たれたと想像できますので、
その意味では最後を見届ける方が多数居て良かったのではないでしょうか?

後ほど「お別れの会」を行う予定があるそうで、日時などはまだ明らかにされておりませんが、
きっとたくさんのデザイン関係者の皆様のご出席が予想されます。

日本デザイン界の巨匠を失った事は本当に残念なのですが、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

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◇ 勝井三雄氏の息子は勝井北斗氏!

 

勝井三雄氏には息子さんが居るそうで、同じファッションデザイナーでご活躍中の
「勝井北斗」のようです。


引用元【サイト(NAVERまとめ)】

 

現在は九州産業大学芸術学部で「客員教授」としてご活躍なされているようで、御父上と同様
「学生デザイナー」にデザインの勉学を教えているそうです。

特に「空間演出デザイン」を得意としているそうで「キミの芸の術をコーディネートする」を
コンセプトにたくさんの学生のご指導をなされているそうです。

やはり「未来あるデザイナーの発掘」の意味では親父さんの「教育的DNA」を引き継いで
いるのでしょうか?

ご本人の生年月日やご年齢、更にご結婚の未・既婚、あるいは子供の存在など詳しいことが
一切分かっておりませんので、ご本人の詳しいプロフィール等はハッキリしておりません。

 

 

■ 勝井三雄プロフィール

本名
勝井三雄
読み
かつい みつお
生年月日
1931年9月6日
仕事
グラフィックデザイナー
出身地
東京都
所属事務所
勝井三雄デザイン事務所
血液型
?型

 

 

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元レスラーハーリーレイス死去!肺がん合併症が原因?関係者の追悼の声

 

元米プロレスラーで「ミスターNWA」として日本人プロレスファンからも親しまれていた
「ハーリー・レイス」氏が2019年8月1日に「肺がん」からの合併症でお亡くなりに
なられたことが分かりました。

享年76歳でした。

 

引用元【ツイッター(さとしさんはデコノフ)】

 

「肺がん」からの合併症とのことなので、たぶん「がん細胞」が多臓器へ転移し一命を
取り戻せない状況へ陥ったのでしょう。

私も知らなかったのですが今年(2019年)3月に「肺がん」を患っていることを発表し
同年7月に開催されたイベントに出席したものの「体調不良」のため途中退場し病院へ
行ったところ病状が悪化しているとして緊急入院をされたそうです。

私の中での「ハーリー・レイス」氏と言えば「ほぼ現役を退く」年齢だったので、長く日本での
活躍は知りませんが「受け身技術」は世界レベルと評価されており、見せるプロレス・・・
つまり「エンターテインメント・プロレス」を築き上げた一人者だと思っています。

「殴る蹴る」だけではなく「受る守る」技術を披露し、日本人が古来から好んでいる「柔」を
重視したプロレスで日本人プロレスファンから親しまれておりました(私も含め)

なので、この度の「朗報」は非常に残念だし特に現日本プロレス団体の「ノア」との関係も
深いはずなので、同団体からも「追悼」されていると思われます。

ハーリー・レイス氏が「ミスタープロレス」と呼ばれるようになったのは1973年に日本でも
「ザ・ファンクス」として有名だった「ドリー・ファンク・ジュニア」を倒しNWA世界ヘビー級
王座に輝いた頃からでした。

プロレスデビューを果たしのは「15歳」頃からと伝えられていますので世界的プロレスラーに
成長するまで相当な「プロレス道」を歩んで来たはずです。

ハーリー・レイス氏がNWA世界ヘビー級王座に君臨していた頃の日本では、今は亡き16文
キックで超有名だった「ジャイアント馬場」氏が全盛期で、確かハーリー・レイス氏から
NWA世界ヘビー級タイトルを奪ったことがあったと記憶しています。

しかし長きに渡ってNWA世界ヘビー級王座に君臨していたことから「タイトル」の顔として
更にチャンピオンの証でもある「ベルト」を長く保持していたことから、そのベルトの愛称が
「レイス・モデル」として全世界のプロレスファンから呼ばれていました。

1973年頃からは日本へと活動場所を移し「全日本プロレス」のリングへ「特別扱い」での
参戦が許され、当時売り出し中だった「ジャンボ鶴田」氏やベテランの「ジャイアント馬場」氏
更に「アントニオ猪木」氏との熱戦を繰り広げ、日本のプロレスファンを熱く盛り上げて
いました。

既に日本で活動していた外国人レスラーの「アブドーラ・ザ・ブッチャー」や「ミル・マス
カラス」との対戦では、アメリカ人特有の「豪快な技」を披露し、プロレス歴史の浅い日本人
ファンを「魅了」したものです。

その後1995年頃にプロレス人生の幕を閉じ、出身地である「ミズーリ州エルドン」に戻り
「レスリング・アカデミー」を開業し若手プロレスラーの育成に貢献して行きます。

また当時「マイナーリーグ」だったWLW(ワールド・リーグ・レスリング)を立ち上げ、
プロレス界の発展とレスラー増加に積極的に取り組んでいたそうです。

「WLW」は日本のプロレス団体「ノア」と友好関係にあったので、2010年にノアが
主催しているタイトル「GHC」の管理委員長に就任しています。

さらに日本人プロレスラーで当時「絶対王者」の愛称で人気を博していた「小橋建太」氏との
交流も深く「ミスター・プロレス」の名を小橋氏に譲る!等と伝え大きな話題を呼んでいました。

2004年にはプロレス界の発展に大きく貢献したとして「WWE殿堂」入りを果たします。

その後も日本や地元アメリカの「プロレス界」の発展に尽力し、度々日本へも訪れていましたが、
2019年8月に「肺がん」が原因で病死されました。

 

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◇ ハーリー・レイス氏を悲しむ声

 

ハーリー・レイス氏が主宰して立ち上げた「WLW」と親交が深い日本プロレス団体「ノア」で
直接ハーリー・レイス氏と関係があったレスラーから次々「哀悼の言葉」が送られています。

 

引用元【ツイッター(丸藤 正道)】

 

 

 

 

 

■ ハーリー・レイスプロフィール

本名
ハーリー・レイス
読み
Harley Leland Race
生年月日
1943年4月11日
仕事
元プロレスラー
出身地
アメリカ・ミズーリ州クイットマン
所属事務所
元WLW
血液型
—型

 

 

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原良馬氏病気のため死去!ウイニング競馬で倒れる?俳優だった!経歴は?

 

競馬ファンなら誰もが知っている「ウイニング競馬」でお馴染みだった「原良馬」氏が
病気のため死去されたことが分かり話題になっています。

享年85歳でした。

 

引用元【ツイッター(ミサイルマン)】

 

2019年7月24日、午前7時46分に千葉県浦安市にある「自宅」にて最後を迎えた
そうです。

原良馬氏は「競馬記者」として活躍しておられましたが、2010年頃からはメディアでお姿を
見かけることが無くなり「体調不良」のため病院に通院しながら療養生活を行っていたそうです

見た目が優しそうで物腰が柔らかく親しみやすいお人柄でたくさんの競馬愛好家から好かれて
いました。

私が原良馬氏を知ったのはテレビ東京系列で放送されている「ウイニング競馬」でして、
名前に「馬」がついていることから「相当馬が好きなんだな!」と思ったことから原良馬という
人物や名前を覚えました。

しかし後に知ったのですが「原良馬」はペンネームで本名は「萩原昴」氏であったそうで、
それを知った時は「唖然!」と共に「ガク!」と首を曲げたことを今でも記憶しております笑;

ただ実際は「競馬ジャーナリスト」としてご活躍されていたので、やはり「馬」に
関連していることから「原良馬」と命名したのでしょう。

メディア報道によると、お亡くなりになられた詳しい情報は分かっておりませんが千葉県の
ご自宅で早い時間にお亡くなりになれたとのことなので、きっと家族に見守られながら
旅経たれたと思います。

ただ「病気」が原因とだけ伝えられているのが、ちょっと気になるところですが安らかに
お亡くなりになられたのでしょうか?

現役時代はトークイベント「良馬が行く」で全国各地を回っておられたのですが、その当時から
病気気味で「病」と闘いながら全国の競馬ファンと交流し競馬界の発展に貢献されていました。

その功績は2018年にJRAから認められJRA賞馬事文化賞で「功労賞」を受賞されました。

原良馬氏は「群馬県」出身なのですが育ちは「東京都」で、通っていた高校は東京板橋区にある
「東京都立北園高校」のようです。

当時は都内でも屈指の「進学校」と呼ばれており、たくさんの「部活」がある高校です。

高校卒業後は東京都港区にある「慶応義塾大学」へ入学し学業と共に「俳優」を目指して
いたそうです。

しかし大学は中退したらしく元から好きだった「俳優業」を目指すため、東京都港区にある
「俳優座」へ6期生として入所したそうです。

当時の同期にはなんと!名女優でお馴染み「市原悦子」さんや「ドラえもん」の声で漫画界を
一世風靡した「大山のぶ代」さんがいるそうです。

なのでこの「俳優座」が生み出した俳優達は今でもご活躍されている現役俳優が沢山居るので
いかに当時から「レベル」が高かった「劇団」であったか!が理解できます。

 

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◇ 原良馬氏の経歴は?

 

原良馬氏は今では「競馬評論家」としてご活躍され「馬」のイメージが大きい人物でしたが実は、
若い頃から「俳優業」に従事ていた経験があり「俳優人」として活動していた時期があります。

学生時代は「慶応義塾大学」に通っていたのですが「俳優」好きが高じて途中で中退をし、
東京都港区にある「俳優座」へ6期生として入所しています。

その後は俳優座で「俳優人」としてご活躍されていたのですが、理由は分かりませんが数年後に
劇団から「退所」しています。

退所後は「フリーライター」に転向し出版社に勤めたり雑誌社に記事を提供していたそうです。

フリーライターとしての自信を得た後、現「読売新聞」で同じの前「週刊読売」に記者として
入社したそうです。

日本競馬と言えば「有馬記念」が有名ですが、当時も大人気のレースだったらしく、その取材で
会場に出向き「特集記事」を任されたことがきっかけで競馬に興味を持ち初め、
今の競馬ジャーナリスト「原良馬」が誕生したのです。

そのため、当時から競馬記事に好評を得ていた「デイリースポーツ」の東京本社へと移社し
「競馬記者」としての人生を本格的に歩み始めました。

元々「俳優人」としての人生が長かったので「物書き」になるのに相当なご苦労があったと
思われいますが、様々な「紆余曲折」を得て会社を代表する記者へと成長したそうです。

その経験を基に「デイリースポーツ」を退社し、主に競馬番組をメインに出演するようになり
今に至っておりました。

 

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◇ 原良馬氏がウイニング競馬で倒れた?

 

原良馬氏は2000年から東京テレビ系列で放送が始まった「ウイニング競馬」へ解説者として
レギュラー出演されておられましたが、MCを担当していたお笑いトリオ「ジャングル
ポケット」の斎藤氏が、タイトルコールと共に「手銃」で原良馬氏を狙い撃ちした際、
突如テーブルの上に倒れ込みしばらく復帰しなかったことで、その演技にリアル感を感じた
視聴者から話題になったものです。

当時原良馬氏は結構なご年齢だったので、たとえ冗談の演技だと周りで分かっていたものの
あまりにもリアルな演技、しかもしばらく起き上がってこなかった事からスタジオ内が一時
ザワついていました。

「手銃」を放ったご本人の「ジャングルポケット」斎藤氏も相当焦ったのか?顔がひきついて
いる様子がテレビで放送されていました。

さすが「元俳優」!と言う方は少なく・・・原良馬氏がまさか昔「俳優人」であったことを
知る物は誰一人おりませんでしたので・・・?

その場面を見た競馬ファンからは「お茶目な一面」が見れたと好評だったそうです。

私は生で視ていたので、今思えば貴重なシーンが観れたな!と今になって思います。

どうぞご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

■ 原良馬プロフィール

本名
萩原 昴
読み
はぎわら のぼる
生年月日
1933年10月25日
仕事
元競馬ジャーナリスト
出身地
群馬県
所属事務所
元デイリースポーツ社
血液型
?型

 

 

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投稿日: 2019年7月24日 カテゴリー: 原良馬

評論家竹村健一死去!病気は多臓器不全!息子や娘は?小池百合子の関係とは?

 

政治評論家で「片手にパイプ」がトレードマークだった「竹村健一」氏が2019年7月8日に
「多臓器不全」のため亡くなっていたことが分かり話題になっています。

 

引用元【ツイッター(エキサイトニュース)】

 

「竹村健一」氏と言えば独特な大阪弁訛りで「だいたいやネェ~」が口癖の評論家で、当時は
大人よりも「子供達」が学校で「ペンをくわえながら」真似をし、先生方を困らせていたことを
今でも鮮明に覚えています(私も小学校の時やったので・・・笑;)

なので表情は「悪人面」でしたが行動や仕草、さらには独特な「大阪弁」と独自の考えを堂々と
発表する姿に引かれる国民が多数おり、人気を博していました。

まさに「歯に着せぬ発言」とは彼の言葉に相応しい用語だと私は思っていました。

今回亡くなられた原因は「多臓器不全」のためとされていますが、以前から何かしらの病気を
持っていたのでしょうか?

いずれにしろ現在(同年月11日)は既に「葬儀」を終えているようで長男の「真一」氏が
喪主を務め「親近者」のみで営んだとされています。

今後「告別式」や「お別れ会」等の予定は一切ないようなので、一般のファンだった人達から
「悲しみのみ声」だけが残されるので、非常に残念です。

ただご年齢は「89歳(2019年)」。十分ジャーナリストとしての仕事は全うしたと思うし
高齢者の国民の記憶に残る「政治評論家」としていつまでも心に残って生きて行くと
思われるので、ご冥福をお祈りするだけです。

当時「政治家」に堂々と立ち向かって議論するジャーナリストは「竹村健一」氏くらいで、
それがウケて各テレビ放送局で「政治評論番組」が急激に増えたことを今でも覚えています。

自分の信念や国民の代表としての意見を「曲げずに堂々と」政治家にぶつける姿勢はまさに、
今の「田原総一朗」氏や「橋下徹」氏のような「政治にものを言う人物」を作り上げた「礎」で
あることは間違いありません。

そんな意味でも国民代表として政治に率直に向き合ってきた一人のジャーナリストとして
「敬意」を表したいです。

本当にありがとう御座いました。そしてお疲れ様でした。

最後に、そんな竹村健一氏について改めて少しだけ勉強してみたいと思います。

 

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◇ 竹村健一氏は多臓器不全で亡くなった?

 

「多臓器不全」で亡くなる・・・とよく言われますが、このように表現されると、どこの臓器・
部位が悪かったのか?が全く分かりません。

別にお亡くなりになられてからの発表なら詳しく知る必要が無いしただ「亡くなった」ことさえ
伝わればそれでよいのでしょう。

しかし気になる人(私も含め)も中にはいると思いますので少し調べてみたのですが、
どうも以前から「大きな病気」を持ってはいなかったようです。

「多臓器不全」とは、一般的に生命を維持するための「臓器」が複数機能障害を起こし
生命を維持することが不可能となる症状のことを言います。

しかし臓器が「複数機能障害」を起こす前に、必ず最初の原因となる臓器があったはずです。

それが他の臓器を巻き込んで「傷つけ」拡大していったと思われいます。

竹村健一氏のご年齢(89)だと「高血圧・貧血・糖尿病・心臓病・脳卒中」などの症状が
あってもおかしくはない年齢です。

さらに今だに「パイプ(タバコ)」を吸っていたようなので「肺」の病気があっても不思議では
ありません。

ところが1985年頃から公の場からは姿を消していましたがそれ以降、特にメディアで
取り上げられるような話題もなく、ひっそりと「隠居生活」をしていたのでしょう。

なので突然の「多臓器不全」での死去と伝えられたことに驚きました。

例えば心臓に多い病気「急性心筋梗塞・急性心不全」とか脳に多い病気「脳卒中・脳梗塞」等の
「突発的急性疾患」が原因でお亡くなりになられるのならまだ話が分かりますが「多臓器不全」
とのことなので、やはり以前からどこかの臓器を痛めていたか?あるいは体調不調で
入院していた可能性が高いと私は思いました。

もちろん正確な病名や症状などは分かりませんが「多臓器不全」で亡くなったと伝えられて
おりますので、それを信じるしかないのでしょう。

 

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◇ 竹村健一氏の息子・娘さんは?

 

竹村健一氏には、確かお子さんが3人居ると聞いたことがあります。

今回の葬儀で喪主を任せられたのが長男の「真一」氏と伝えられています。

つまり長男は「竹村真一」氏であることが証明されています。

その他は、確か弟の「竹村英二」氏と長女(娘)が居ると記憶していました。

長男の「竹村真一」氏は京都造形芸術大学の「教授」で主に「文化人類学」を専門に講義・
講師を行っているそうです。

次男の「竹村英二」氏も国士舘大学の「教授」を行っていると伝えらえていますが、一説には
大学2年生で「中退」した過去があるらしい・・・と言われており大学を中退しても「教授」に
なれるんかい?と思ったのは私だけでしょうか?

長女については全く情報がありませんが、こちらも大学時代に1年間休学して奈良の「尼寺」に
行って修行を積んだ?との噂があります。

いずれにしても「一筋縄では行かない」子供達?と生活を共にしていたようです。

一般からすると「父も父なら」「子供も子供」ってところでしょうか?笑;

 

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◇ 竹村健一氏と小池百合子さんの関係とは?

 

竹村健一氏は以前、現在(2019年)の東京都知事「小池百合子」さんがアナウンサー時代に
番組を共にしていた過去があり、竹村健一氏の冠コーナーであった「世相講談」の
アシスタントを勤めていたことがあります。~~超懐かしい!!~~

 

引用元【ツイッター(赤坂達樹)】

 

もしかしたら、そこで竹村健一氏から「政治や経済」のことを学んだおかげで今の「知事職」に
つけた!と言っても過言ではないのかも知れませんよね♪

その意味ではツイッターにも書かれていますが竹村健一氏の門下生「第一号」なのかもですね。

付き合い的にはただそれだけです。

もちろん「男女の仲」でなかったことは言うまでもありませんが・・・笑;

 

■ 竹村健一プロフィール

本名
竹村健一
読み
たけむら けんいち
生年月日
1930年4月7日
仕事
ジャーナリスト・政治評論家
出身地
大阪府大阪市
所属事務所
血液型
B型

 

 

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